想いを託して


   今はもう二人しか住んでいない家には似つかわしくないほどの音量でドアベルが鳴った。いつもこうだ。ここまで耳障りだときっとお父さんの研究に支障が出るし、そうでなくても煩わしい。きっとマスタングさんもそう思うに違いない、とここまで考えて、つい先日この家の住人は三人になったのだったと思い出した。時計を見上げると午後三時を少し回ったところだった。そのくらいならば郵便が来る頃だと知っていたから、きっと受取人の署名がいる特殊な届け物だろうと推察する。珍しいことではない。研究の材料だとかでそうした小包が届くことはよくあった。はあい今すぐ、と慌ただしく手にした洗濯物を椅子に預けて、きっと玄関の前でまだかまだかと待ちかねているであろう配達員に心の中で少し謝る。この家はいつだって人手不足だ。
「ごめんなさい、」
 子供の背には少し高い扉を急いで開けると、人の良さそうな出で立ちをした青年がそこに立っていた。苛立ってはいないようだが、こちらの顔を見てうろたえた様子だった。こんな家に子供がいるなんて思わなかったのかもしれない。
「ええっと、何か配達ですか?」
「あ、ああ、これを」
 慌ただしく小包を手渡されて、署名を求められる。宛名の所を見ると”Roy Mustang”とあるから、マスタングさんの荷物だったようだ。彼は家族ではなくお父さんの泊まり込みの弟子なので、受け取りの受領書には彼がサインすべきなのかもしれないが、この際説明するのも面倒なのでやめておいた。少しぎこちない署名だったけれど配達員の方ではそれで問題なかったらしく、ではまた!とばたばた出て行った。見たことのない顔だったし、きっと新人さんだったのだろう。
 抱え込んだ小包はかなり重たくて、一刻も早く何処かへ置かなければ手を滑らせて落としてしまいそうだった。とはいえその辺に転がしておいては誰かが躓いてひっくり返ってしまうかもしれないし、椅子はさっきの洗濯物を置いたままだ。テーブルはお昼の皿が残っていていっぱいで、この上何か他のものを載せるような余裕はない。いろいろと考えた末に、あまり気は乗らなかったけれど、荷物は直接手渡すのが良いだろうとの結論に至った。修行の邪魔をする気はもちろんなかったし、何よりまだそれほど話したことがなくて気まずかったのだ。
 踏みしめるたびにミシミシと不穏に鳴く廊下をやっとの思いで通り抜けて、突き当りの扉へと向かう。耳慣れた錬成音がその戸一枚隔てた向こう側から聞こえてきた。マスタングさんはいるようだ。両手は塞がっていたから、ノックすら満足にできないと気付いてしまった。ここは声を張り上げるしかないらしい。
「マスタングさん、マスタングさん」
 返事はなかった。
「マスタングさ、」
 冬場セーターを脱ぐときのような微かな音が耳に入ったと思ったその瞬間、派手にガラスの砕ける音が響いた。イタッと鋭く一言、それに続く悪態に、リバウンドの五文字が脳裏を掠める。居ても立っても居られなくなって、手にした小包は床に放り捨てノックもなしに部屋へ飛び込んだ。
 部屋はひどい惨状だった。元々はお父さんとお母さんの寝室だったここは、明るく、しかし派手過ぎない落ち着いた色調の壁紙が貼られていたはずだったが、今では無残に煤けている。部屋の中心には炭化した布切れ、きらきらと光を乱反射する細かな破片とその両方にまみれた青年が咳き込んでいた。手元をきっちり押さえ込んでいて、きっと砕けた器具で怪我をしたのだろうと知れた。
「マスタングさん、大丈夫ですか?」
 まだ何か反応しそうな物が残っていないか注意深く観察しながら声をかける。こういう時、焦って駆け寄ると二次被害が起こり得るのだ、とはお父さんの言葉だった。
「ああ、大丈夫。すまないね」
 マスタングさんは煤けた顔を上げて少し恥じ入った様子でそう言った。どうやら問題は無いようだ。そのままそこらの紙きれや服を使って落ちているガラス片をかき集めようとするので、慌てて止める。
「私、ちりとりとほうき持ってきますね」
「自分でやるから気にしなくていいよ」
 そうは言うものの、広げた手にはじんわりと赤く血が滲んでいるのが痛々しい。ちょうど野菜を切るのに失敗して作ってしまった傷にそっくりで、考えるだけでもあの時の痛みが蘇るようだった。化膿してしまったら大変だ。思わず口走る。
「駄目です、まず手を洗わないと」
 彼は目をまんまるにしてぴたりと動きを止めた。少し語気が強かっただろうか。まだうちへ来てから数日しか経っていないのに、これはやってしまったかもしれない。慣れない年上の男の人への接し方は難しいものだ。口うるさい奴だと嫌われてしまったらどうしよう。
 彼が来てから、この家にはどこか光が差すようになったと思ったのに。
「……ああ、そうだな。ちょっと洗面所を借りるよ」
 しばらくの間をおいてマスタングさんはゆっくりと立ち上がり、横を抜けて廊下へ出ていった。遠くの方で洗面台を叩く水しぶきの音が聞こえてくる。
「あ、そうだ、ほうきとちりとり」
 まるで小火でも起きたかのような部屋に一人残されて茫然と立ちすくんでいたけれど、いつまでもこうしてはいられない。彼にああ言って促したのだから、自分も言ったことはきちんと守らなければならない。床に散らばる無数の破片と黒っぽい塵にちらりと目をやって、これはなかなか掃除が大変そうだと心の中で呟いた。


 さっとほうきで床を一掃きすると、途端にもうもうと埃が立った。これは窓を開けたほうが良いと判断してサッシのクレセントに手をかけたところで、筋張った手が伸びてきて自分のそれと重なった。
「開けるよ」
 振り返るとさっきの煤け顔はどこへやら、すっかり見慣れた顔に戻ったマスタングさんがそこにいた。ガタガタとやたらきしんで開けにくい窓も彼の手にかかればあっという間だ。一筋の風が、目にかかりはじめた前髪を軽く揺らした。
「ありがとうございます。それとさっきはすみません」
 真っ直ぐ目を見ることはできなくて、ほうきを握りしめたまま軽くうつむいて謝る。悪い癖だ。きちんと目を見て謝りなさいと母に何度も言われたのに。
「うん?何も悪いことはしていないと思うけど」
「あの、ちょっと口出しが過ぎたかなって」
「ああ。それならむしろこちらが謝らないと。錬金術師が術の失敗がもとで指先を化膿、指を落とさないといけなくなりました、なんて事態になったら笑い話にもならない」
 ごめん、そしてありがとう、と。穏やかに言われて、ようやくそこで顔をわずかに上げると、マスタングさんの眉がこれ以上ないほどに下がっていて、そのなんとも情けない表情に思わず頬が緩んでしまった。この人はいい人だ。こちらの笑みに気付いたのか、「さあ、部屋を片付けないと!師匠に怒られてしまう!」などとバタバタ片づけを始めた彼は錬金術師とは言え年相応に見えて、ちょっとかわいいところもあるんだなと思った。


「あっ、荷物」
 二人がかりでなんとか部屋を復旧させたところで、そもそもの用事を思い出した。廊下に置きっぱなしだったが、この騒動の間にお父さんは二階から降りてきた様子はなかったから安心した。ここのところあまり体調が良くないらしく、躓いて怪我でもしたら大変だからだ。余程研究に集中しているのだろう。呼び鈴もうるさい窓のサッシも、錬金術師にとってはとるに足らない些細な生活音なのだろうか。
 荷物のことをマスタングさんに伝えると、すぐにピンときたようだった。
「これは今まで実家で使っていた錬金術の研究所でね」
 慣れた様子で麻紐をほどき、あっという間に中から革表紙の古書が出てきた。一番上の表紙には「ケインズ初等英語II」とある。とても錬金術とは関係があるようには見えない。他にも「マダム・グリーンの簡単夕ご飯」「水泳の極意」「青い猫の謎」など、ジャンルはてんでばらばらだ。マダム・グリーンの本は少し興味があって開いてみたが、本当に普通の料理書だった。これは今晩の献立に使えるかもしれない。
「錬金術のことなんて書いてないですけど」
 一通り目を通してそう呟くと、マスタングさんはちょっと得意そうに笑った。
「錬金術はとても素晴らしい力だ。だけど使い方を誤ると人すら殺める危険な武器にもなり得るから、錬金術師はこうやって何でもないような本に自分の研究を隠すんだ」
 暗号ってやつだよ、と彼は一例を見せてくれた。手にしたのは先ほど読んだ中の一冊、「青い猫の謎」だ。本のタイトルの通り、随所に猫のモチーフがちりばめられたミステリー小説のようだ。適当なところを、と開かれたページはどうやら殺人事件の捜査の真っ最中だった。
「『ウルシュラは別れ際こう言ったの。「見てなさい、ニック!今にあなたに天罰が下るわ。その時になって泣いて縋っても私は知らないからね!」って。そしたらウルシュラ、次の日には冷たくなってママに発見されたんだって!前日の夜、最後に会ったのは彼氏のオリヴァーだから、ママは殺したのは彼だって言うんだけど、私絶対ニックだと思う。イレーネにも聞いてみてよ、あの子もそう疑ってたわ!』興奮気味のアンジェラをなだめつつ、警部は特に収穫なしか、と心の中でぼやいた」
 朗々と響くテノールの心地よい声と、ヒステリックな登場人物の心情がどうもマッチしなくて少し面白い。でも、感想はそれだけだ。この場面と錬金術がどう関係するというのだろう。何のことやらさっぱり、と顔に出ていたのか、マスタングさんは楽しそうに先を続けてくれた。
「ここを見てごらん」
 彼の指先をたどって文章中の単語に目を凝らすと、”cat”とある。読み上げられた一節の直前の文だった。
「この本のタイトルにもあるように、猫は暗号を解く大事な手がかりなんだ。ここでは、『これより暗号はじめ』のサインになっている。そして登場人物の名前の頭文字を取ると、」
  Ursula
  Nick
  Ursula
  Mom
  Oliver
  Mom
  Nick
  Irene
  Angela
「Unum omnia、すなわち『一は全』だ。錬金術の基本の考えで、この前には『全は一』と続くことが多い」
 確かに、読み進めていくと「Omnia Unum」と読める箇所が見つかった。これは恐らく「全は一」に対応しているのだろう。そして直後の文章に“cat”の単語。
「これで暗号はおしまい、ということですか?」
「そうだよ。これは入門書だから割と読みやすいけど、こんな具合で他の研究書にも暗号や隠喩なんかで巧妙に隠されているんだ」
 この本ですら難解に思えるのに、他の本はこれ以上にややこしい記述があると考えたら目が回りそうだ。
「錬金術師は大変ですね」
 普段読む本よりももっと細かい字を追っていたせいで目がしばしばする。目の前にいるはずのマスタングさんすらじんわり滲んで見えた。
「時々難しくてよく分からないこともあるけれど、集中していれば意外と失敗はしないものさ。そういう意味では、さっきの錬成は錬金術師としては失格だな。物音に気を取られていたみたいだ」
 物音とは、さっきのドアベルの音かその後に大声で自分が名前を呼んだあの時のことだろうなと分かった。優しい彼は、きっと謝ったらそんなことはないと否定するだろう。だからもうごめんなさいとは言わなかった。その代わり、次からはうまくやるのだ。お父さんの下で立派な錬金術師になるマスタングさんの邪魔になんてならないように、すこしでも彼の助けになれるように。けれどその時、そう決心する自分の裏で、いつまでも未熟なままでいてほしいと願う何かがいるのに気づいてしまった。どんなに音を立てても一心不乱に研究するお父さんには聞こえない。もうすぐ焔の錬金術が完成するのだといって、食事すら抜いて机に向かっていた日もある。いつか彼も、そんな風になってしまうのだろうか。
「リザ?眠いのか?」
 急に黙り込んだのでいぶかしんだのだろう。マスタングさんは広げた研究書を積む手を止めて、こちらを覗き込んだ。
「あっいいえ、大丈夫です」
「本当に?今日は片づけを手伝わせてしまったし、疲れたならちょっと仮眠したらどうかな」
 流石に部屋まで連れて行ったら師匠に破門されてしまうかもしれないけれど、寝ている間夕ご飯くらいは任せてほしい、と申し訳なさそうに続けた。この人は、本当にいい人だ。
「本当に大丈夫ですから。気持ちだけ受け取ります。ありがとうございます」
 いつか彼がここを巣立つその日まで、どうか今のまま心優しい人でありますように。なんて都合の良い願いだろうと呆れながらも、そんな身勝手な気持ちを捨てることはできなかった。


 大変なことを知ってしまった。あの大総統どころか、夫人の遠縁だと思っていた一人息子のセリム・ブラッドレイすらホムンクルスとは。
「私はいつでも貴方を影から見ていますからね」
 きっとストーカーの方が生身の人間なぶん気が楽だ。プライドに銃や剣の類は効かない。大佐の炎ですら効果があるか怪しいものだ。何せあれは影だから、光あるところならばどこでもその目を光らせていることだろう。さながら動物園の見世物にでもなったような気分だ。いつ何時も気を抜くことはできなかった。
「そこ、空いているかね」
 頭上から降ってきた懐かしい声に思わず目を細める。昨晩といい、この人は本当にタイミングを計るのが上手い。
と同時に、足元で何かがぞろりとはい回るような感覚を覚えた。プライドが「見て」いるのだ。頬の傷がじくりと疼いた。
「どうぞ」
 ああ、そうだ。大佐に伝えなければいけない。きっと自分以外にこのことを知る者はいないはずだ。少しでも彼の助けになれるように、とは幼い頃の決意だった。その心はイシュヴァールを経て、こうして大総統付き補佐になっても変わることはない。諜報員でも錬金術師でもない自分はこの方法しか知らないけれど、あの時教わった暗号ならばきっと気づいてくれるだろう。全神経を指先に込めて、そっと二回テーブルをノックした。
「そういえば、スカーが今、北にいるそうですね」