有能な副官の日常


   ああもう、人ってなぜできないことに挑戦したりするのかしら。

 その日はいつもとなんら変わりない、いたって普通の日だった。普段どおりハボックは煙草の灰を書類に落として大騒ぎし、ブレダはブラックハヤテ号を見て机の上に避難し、フュリーはそのハヤテ号にエサをやってファルマンに外でやってくれと言われる、そんな日常。そして肝心の上官はと言われれば、彼もまた例に漏れずどこかでおサボり、という次第である。

「どこに行ったのかしらね」

 当然、「日常」を執務室で繰り広げる部下たちが、消えた上官を探すはずもなくて、結局手の空いているリザがこうしていつも手を下すのだ。いつだったか、いい加減サボるのをやめたらいかがですかと申し出たこともあるのだけれど、彼にはいつもの胡散臭いスマイルで軽く流された。全く、司令部中探すこちらの手間も考えて欲しいところ。大佐ときたら、どこにそんな隠れる場所があるのか、というようなところに平気で忍び混んでいたりするからこれがまた厄介で。いっそのことスパイにでもなってしまったほうがいいんじゃないか、なんて真面目に考えたこともある。

「この前は書庫の本棚の陰で、その前の週は確か給湯室の棚の中だったから……」

 そろそろ中庭の木陰なんかで昼寝していたりするかもしれない。見つけたらどんな罰をくれてやろうか。威嚇射撃でもすれば少しは治るかしらーーなんて物騒なことを考えながら、有能な副官の足は中庭に向かったのだった。


 外は思っていたよりもまぶしくて、とっさに目を細めた。
 さて、彼はどこだろうか。さっと中庭の木に視線を向けたけれど、どうやらいないようだ。というかロイどころか人っ子ひとりいない。まあ当たり前である。通常ならば皆仕事中なのだから。
 ならここにいても仕方がない、と諦めて踵をかえしたその時、視界の端を青い軍服がかすめた。ビンゴ!慌てて再度辺りを見回したリザの目に映ったのは、木の上で気持ち良さそうに眠るロイの姿だった。

「……なんてところで寝てるんですか」

 呆れるリザの声は、きっとロイには届いていないだろう。放っておいたら定時になっても夢の中を彷徨っていそうだと判断した彼女は、とにかく起こそうと声を張り上げる。

「大佐。大佐!たーいーさっ!」
「やあ、おはよう中尉」
「おはよう、じゃありません! 今何時だとお思いですか!」
「んー、1300くらいかな」

 しれっと時刻をあてた彼に、軽く頭痛がしそうだ。

「さっさと降りてきてください。書類がたんまり溜まってますから」
「わかったよ」

 いつも大佐はこうなのだ。ぱぱっと仕事を終わらせてしまえば、直帰できることは分かっているはずなのに、今日のように逃走して残業する毎日。ここまで徹底して似たような日々が続くと、呆れるというより心配になってくる。彼はよく体が保つものだ。

「……中尉、私は嫌なことを思い出した」

 なかなか降りてこない、と上を見上げた時だった。木の枝にまたがった彼が困ったような顔をしてこちらを見つめている。

「なんでしょうか」
「師匠に錬金術を教わっていた頃に、私が木から落ちたことを覚えているかい?」
「……大佐、まさかとは思いますが、降りられないのですか?」
「そのまさか、だ」

 彼の言う転落事故とは、自分がまだ小さかった頃の話。ことの始まりは、私がひとり庭であげていた凧を木に引っかけてしまったことだった。研究で忙しかった父は当然かまってくれず、途方にくれていた所に彼が通りかかったのだ。私が取ってほしいと頼むと、彼は快諾してくれた。ところが、登って凧を取ったまではよかったのだが、その後枝の上でバランスを崩して頭から落ちてしまったのだ。幸い、怪我をすることはなかったものの、後頭部には大きなたんこぶができてしまった。あの時の申し訳なさといったら、もう本当に言葉に言い表せないほどで。
 そんなこともあって、私は彼を急かせられない。大佐が今度怪我をしたらたんこぶどころでは済まないだろう。

「では、まず手前の枝をしっかり持って、ゆっくりと足を下ろしてください」

 そろりと足を伸ばす上官は、あの焔の錬金術師だと分からないほどに情けない顔をしている。慎重に足場を確かめるさまは、まるで氷の張った池の上を歩くかのようだ。そんなに怖がらなくても。

「もっと重心を前に持ってきてください。そんなに後ろだと、また頭から落ちます」
「そんなこと言われても、顔面から落ちたらどうする、」

 言いかけた彼の顔が、視界からふっと消える。まずい、と思ったときには、もう体が反応していた。

 ずしん、と腕にかかる重さを、なんとか持ちこたえようと地面を踏みしめる。上から降ってきた上官は、見た目よりもずっと重かった。

「……大佐、どうやらあなたには木登りが向いていないようですね」
「…そのようだな……」

 頭をかりかりと掻きながらぼそりとつぶやく彼は、十数年前のことから学んでいない模様。危なっかしいことこの上ない。もう少し自覚を持って欲しいものである。

「私が受け止めたからよかったようなものの、もしも私がいなかったら、」

 そこまで言ってふと気がつく。今の自分は、もしかして上官を「お姫様だっこ」している状況ではないか……?

「なんで私がお姫様だっこしてるんですかあああっ!」
「いいじゃないかリザちゃん」

 赤ん坊の如くへばりついた上官はなかなか離れなくて、結局その日も残業する羽目になってしまったのだった。


【おまけ】
「執務室までこのまま運んでくれないかい?」
「……この世からおさらばしたいですか」
「…やっぱりやめておくことにするよ」