残業デート

 
静まりかえった執務室に、さかさかとペンを走らせる音だけが聞こえる。
ふと手を休め、時計を見れば、ちょうど12時をまわった所で、残っている書類の多さにうんざりした。
どう見ても、あと10センチはあるだろう。
もちろんサボった自分が悪いのだが、何が悲しくて残業などしなければならないのか、たまに分からなくなる。
これで残業が中尉と一緒でなければ、私は書類を破り捨てていただろう。

「大佐、手が止まっています」

いつの間にか中尉が目の前に立っていた。どうやらぼーっとしていたらしい。

「お疲れのようですね」
「これだけ紙の束が積まれていたら、疲れない方がおかしいと思うのだが」
「サボる大佐が悪いんですよ」

しかし、と彼女は続けて言った。

「休憩は必要ですね。コーヒーをお持ちします」

そう言うと中尉はすっと扉の影に消えた。残された私は呆然とその姿を見送る。いま彼女はなんと言った?
残業している時に中尉が休憩を許可するなんてことは、今まで一度もなかった。
ましてコーヒーを持ってくるなんて、今夜は雪が降るんじゃなかろうか。
ああでも、雨が降るよりは雪の方がいいか。

ジリリリリリリン ジリリリリリリン

突然、執務室にけたたましい電話のベルが鳴り響いた。
こんな夜遅くに何の用だ?
深い溜息をつきつつ気だるげに受話器をとれば、耳に入ってきたのは 聞き慣れた交換手の台詞。

「セントラルのヒューズ中佐からお電話です」
「……つなげ」

まったくあいつは何なのだ。こんな時間に電話をかけておきながら、 娘自慢だったりしたら燃やしてやろう。
というよりも、あいつの親バカを見ているのは楽しいが、執務中に電話が鳴るのはいらいらさせられるから嫌いだ。
そう、特に今のような状況で。

「もしもし、ロイか?」
「ヒューズ。さっさと用件だけ伝えろ」
「おおっと、ずいぶん不機嫌だな。残業か? このサボり魔」
「うるさい。それに私はサボっているつもりはないんだ」
「嘘つけ」

私は司令部中の噂になるほど執務をサボったつもりはない、と思う。
まあ少し書類が残っていた程度だ。
誰だって定時に上がりたいと思うだろう。
ただ今回はちょっとばかり運が悪かった。
定時を知らせる空砲が聞こえてさあ帰ろうか、と腰をあげた瞬間に、 市内で爆破テロの予告があったという電話がかかってきたのだ。
もう皆帰り際で、不幸なことに受話器をとったのが私だったから、 指揮をとる羽目になってしまった。
結局テロは、部下達の迅速な対処により未然に防がれたのだが問題がひとつ。報告書だ。
電話を受けたのがあの場にいた他の誰かだったなら、今頃は自宅で気持ちよく寝ていたものを。
ああ思い出すだけでも腹が立つ。
目の前の書類をどこか遠くに放り投げてしまいたい。
ヒューズとの会話は続く。

「おまえさんが残業ってことはリザちゃんもか?」
「そうだ」
「ってことはだ、残業デートじゃねえか」
「デートなあ……。本当のデートだったらどんなにいいことか」
「ロイの口からそんな言葉が聞けるとは思ってなかったぜ。キスのひとつやふたつ、おまえさんならお手のもんだろう」
「馬鹿か。そんなことをする素振りでも見せたら、脳天を撃ちぬかれてあっという間にあの世ゆ」

ぶちん、と。突然電話が切れた。
不思議に思って電話に視線を持っていくと、フックの上に軍人特有の無骨な指がある。
受話器を持ったままおそるおそる顔を上げれば、厳しくこちらを睨む鳶色の瞳と目が合った。

「ヒューズ中佐とのお話は楽しかったですか大佐」
「……もちろんだとも」

というか、ヒューズの話の本題はまだ聞いていなかったのだがね。
私が反省したような顔を見せると、中尉の表情は幾分か柔らかいものになった。

「コーヒー冷めてしまいますから、お早めに飲んでくださいね」
「分かったよ」
「では、私は終えられた書類を提出して参りますので、サボらずにやってください」
「私はそんなに信用がないのかい……」
「大佐は常習犯ですから」

君、そこ真顔で言うところじゃないと思うんだが。
机の上に散乱した報告書を手早くまとめ、では、と立ち去ろうとした副官は、
扉の前でぴたりと止まると呟いた。

「私は残業デートでも構いませんよ?」

振り返って見せた微笑みは、それはもう本当に綺麗で―――


なんか残業してもいいような気がしてきた。